ハクキンカイロ創業年の謎


ハクキンカイロの創業年は、公式には1923年4月10日、創業者的場仁市氏がハクキンカイロ(当時の表記はハクキン懐爐)の製造販売を目的とした個人商店、矢満登商會の事務所を大阪市西区に開き、この日をもって創業としています。

でもちょっと前にサイト作者が調べてたら、戦前の資料で、創業大正十年、1921年という記録が出て来てしまいました。
さらにその後調査を続けると、1922年、1916年という記録もありました。さすがに1916年というのは話を盛りすぎだろうと思いますが、どうも、戦前の矢満登商會は、創業年を1923年と表記することだけは決してなかったようなのです。

一体何故こんなことが起きるのか。ここからはサイト作者がいろいろ調べたり考察したりして導いた一つの結論です。正しいかどうかは正直怪しいところもあるとは思いますが、だいたいこうだったんだろうと思います。というわけで、サイト作者のたぶんこうだったんじゃないか劇場、ハクキンカイロの創業年は?編の始まりです。

公式だと、創業者的場仁市氏は1920年頃ロンドンに出張し、そこで白金触媒式のライターを見つけます。これはカイロになると直感した氏は、帰国後、家のそばに掘っ立て小屋を建て、(掘っ立て小屋を借り、という記述のこともあり)日夜研究に没頭。そして3年後の冬のある日、(足かけ3年という記述のこともあり)ハクキン懐爐は完成。毎日弁当を届けに来てくれていた的場夫人と手をとりあって喜んだ。ちらちらと雪が舞っていた。そして氏は西区に矢満登商會を設立。最初は創業者が手売りしていたがじきに百貨店で扱ってもらえるようになり事業が軌道に乗った。

公式や、新聞とかにたまに出る、最近ハクキンカイロが見直されています的な新聞記事とかに出てくる創業時のエピソードをまとめると、だいたいこんな感じです。が、この話、なんか変に感じるところがいくつもあるのです。具体的には、

1920年当時、的場仁市氏は繊維を扱う商店の使用人でした。商店とはいっても問屋みたいな大きなところで、的場氏はそこの番頭、とはいっても恐らく番頭もたくさんいる相当に大きな店だったろうと考えられます。
どうしてそうだと考えられるのか。それは、的場氏がロンドン出張を任されるような、重要なポストにいたからです。商談のためにロンドンに使用人を送れるような大きな店で働いていたというのが分かるし、それにロンドンに丁稚を送るような店はない。となると、的場氏のその店での地位は番頭クラスであると容易に想像できます。

そして的場氏は日本に帰国後ほどなくしてその店をやめます。そうでなかったら日夜ハクキンカイロの研究に没頭とかできないでしょう。そしてここにも一つの謎が。その研究中、的場氏はどうやって飯を食っていたのでしょうか。的場家は、そんなことを気にしなくてもいいような、大富豪だったのでしょうか。けれどそれも違うようです。というのは、的場夫人が毎日、掘っ立て小屋に弁当を届けに行っていたというエピソードで分かります。毎日外食とかできるほど、裕福ではなかったのです。

そしてここからがサイト作者の推測です。ロンドン出張から帰った的場仁市氏は、ほどなくして勤め先の繊維問屋を退職します。理由は分かりませんが可能性としては3つ。1つめは、ロンドンでの商談がうまくいかずに責任をとる形でやめた。ただこの可能性は薄いと考えます。理由は後述します。2つめは、元々、独立心の強い人で、大きな商談をまとめたらそれを花道に退職するつもりだった。3つめは、家族や本人の体の都合、たとえば両親の介護をしなくてはならなくなり、やめざるを得なくなった。サイト作者は2の説をとります。
1の説はなさそうなのは、的場氏は退職後しばらくはろくに収入もなくても食っていけたっぽい感じだというのが理由です。恐らく、店主は、的場氏が元々独立したがっているのを知っていて、だったらロンドンで商談まとめてこい。うまくいったらボーナスをやるからそれを独立資金にしろ、とでも言ってロンドンに送り出したのではないか、と。3もなさそうなのは、とにかくなんとか食っていけたっぽい感じだったことですが、ひょっとするとこれが主な理由である可能性は捨てきれません。

退職した的場氏は、1921年に、家の近くに建てたか借りたか、掘っ立て小屋に、「矢満登商會」という小さな表札をかけます。そして、カイロとは無関係なささやかな商売を始めます。この時点で的場氏は、カイロの製造販売を生涯の事業とするとは考えていなかったと思います。そのとき始めた商売が軌道に乗れば、そちらで食っていくつもりだったし、カイロのほうがうまくできたら、そちらでも商売するつもりで、たぶん、いくつか考えていた事業の1つにハクキンカイロがあった、という程度だったのではないかと考えます。
どうしてそう考えるのか。そもそも、です。「矢満登商會」という屋号が、これからカイロ一本で食っていくつもりの人がつける屋号に見えないのです。いろんな商売をやって店をどんどん大きくするぞ、という意気込みは感じられますが、本当に最初からカイロ専業でやるつもりだったら、この屋号にはしないと思います。

ところが、始めた商売はそれほどうまくいなかった。あるいは、商売のほうは、家族で何とか食っていける程度稼げれば良くて、残りの時間はカイロの研究に充てるつもりだったのかもしれません。商売がうまくいかなかったからカイロの研究に没頭するようになったのか、それとも元々、カイロの研究をメインでやるつもりで、商売のほうは片手間のつもりだったのか。氏はどんどんカイロの研究に没頭するようになります。けれど、前の勤め先で退職金代わりのボーナスをもらってあったので、とりあえず数年は食って行けた。そしてその金が尽きる前に、何とかカイロは完成した。ちらつく雪の中、夫人と手をとりあって喜んだそのときも、掘っ立て小屋には「矢満登商會」の小さな表札がかかっていた。そしてそれを見ながら氏は、この名前はとてもいい名前だから、ずっと使っていこう、と、決心したのです。そしてその直後、西区に移転したとき、もっと大きな「矢満登商會」の看板を掲げるのです。

よく調べると。初代的場仁市氏の時代、屋号はずっと矢満登商會のままでした。変えるタイミングはいくつもあったし、せめて「ハクキンカイロ本舗」みたいな名前にしてもよかったはずなのに、的場仁市氏は決して屋号を変えようとしませんでした。
たとえば空襲で焼けて再出発したとき。たとえば個人商店から株式会社化したとき。何度も屋号を変えるタイミングがあったのに、決して変えようとしなかったのは、仁市氏のこだわりだったのでしょう。
的場仁市氏は、うまくいったものは継続して使い続けて変更しない、というポリシーを持った人だったと推測できます。たとえば矢満登商會の商号についても、1949年に株式会社化したとき、「株式会社矢満登商會」としました。「株式会社」のほうの会は新字にしたのに、「矢満登商會」の會の字は決して変更しなかったのです。ハクキンおじさんだって、的場仁市氏の時代からずっと使われています。そして何より、的場仁市氏が、うまくいったものはずっと変えないというポリシーを持っていたからこそ、かなり古い機体でも、現行火口をつければ使えるようになった、とも言えます。

そして、ハクキンカイロが創業は1923年と言い出したのは、1953年。的場仁市氏が没してから2年。2代目社長的場恭三氏の時代になってからであることが分かります。
本当の創業当時の矢満登商會はハクキンカイロをまだ売っていなかったので、的場恭三氏は本格的にカイロの発売を始めた1923年を、(ハクキンカイロ製造販売元としての)創業年にしたのでしょう。

これならば、矢満登商會の創立は1921年で正しいし、ハクキンカイロを売り出した年を創業とすれば1923年創業なので、どちらもそれほど間違っていないということになります。
ハクキンカイロ株式会社の創業が1921年と言ってしまうと、1921年からハクキンカイロが存在したかのように見えてしまうし、矢満登商會は1921年創立、ハクキンカイロは1923年創業って言い方が一番妥当に見えます。

正直、掘っ立て小屋を建てた、借りた、と、記述が揺れているところとか、3年後が足かけ3年になってたり、古い時代のことなのでいろいろあいまいで、まあ、そこまで細かく考えなくていいのかもしれません。
ハクキンカイロとは全く関係ない別の古い会社の沿革を見てたら、やっぱりサイト上にある時代とパッケージの表記が明らかに食い違う例とかもあったので、古い会社の沿革とかはそういうもんだと思います。
そういえばZippoライターもSince表記がSince1932だったのがSince1933になったりまたSince1932に戻ったりしているし、ハクキンカイロより若くて空襲で焼けたわけでもない会社でもそうなんだから、ハクキンカイロの創業期にちょっと謎が残っていたほうが当然かもしれません。

(追記)「矢満登商會」の「満」の字は、「滿」と「満」のあいのこのような「満」のつくりの内側が「入」「入」になっている表記のことが多かったのですが、現代の文字体系では全く同じ表現ができないことと、「矢満登商會」表記されることもあったこと、現在のハクキンカイロ株式会社公式での表記が「矢満登商会」なので、当サイトでは「矢満登商會」でほぼ統一しています。

,

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です