南極観測隊はハクキンカイロを使ったのか(2)


今回は、南極観測隊はハクキンカイロを使ったのかの続きです。

ネットでエゴサをしてたら、この記事に言及しているXのコメントを見つけました。

当サイトはいろいろ調べてあるけどどこに書いてあったか書いてないとか言われてますが、中野征紀の「南極越冬日記」に、はっきり「ハクキン懐炉」と書いてあることが分かったのでそのほかの文献については詳しく書きませんでした。
あと、1962年帰投の南極観測隊は4次じゃなくて5次越冬隊と5次越冬隊を迎えに行った6次隊だとか細かい指摘もありました。

でもって、このXの投稿者が分からなかったという西堀栄三郎の手記ですが、この方がどこにも書いてなかったと言っている「南極越冬記」です。ただ、本当に変なところでひょいっと出てきた記憶があって、少なくとも3月19日前後の記述には出てきてないみたいです。(追記)9月22日の記述に「懐炉で足をあたためてこたつにする。」とあります。

南極観測船宗谷の話のほうは、この方が推測しているとおり「南極新聞」です。ただ、複写を見返したら船内売店(この方や「南極新聞」での表記は「酒保」)の話じゃありませんでした。
南極に降り立つに当たってこんな装備が必要と推測されます。ない場合は係まで。以上。みたいな記事に「白金カイロ (一五〇)」とあります。一五〇というのは重量(150gの意味)ですが、サイト作者がツッコミを入れたとおり、この時代のハクキン懐炉は、箱計量カップ説明書込みでもこんな重量にはなりません。次の行には火口スペア(2ヶ二〇)とあるのですがこれも少し気になってて、この時代の換火口って2個セットだったのかというのと、それと、火口を(製品に元々ついていた1個を含めて)3個用意するってことは越冬前提の装備なんじゃないかというところです。
記事名は「上陸用装備解説 其の二」鳥居鉄也の署名記事です。鳥居の役目は「南極新聞」1号によれば設営となっています。この記事の「(三)現地の状況により携行すべき品目」に「白金カイロ」と火口が載っています。
言い忘れましたが鳥居のこの署名記事が記載されているのは「南極新聞」昭和32年1月17日付49号です。
少なくとも鳥居はなければ係のところまで来いと書いているのだから、この時点で「白金カイロ」とやらが鳥居の管理する倉庫かコンテナの中に入っていたのは確実です。

当サイトがこれらの記述の「白金カイロ」をハクキンカイロだと同定しなかった理由についてこの方はナショナル黄金カイロとかあったからだと推測していますが、この時代にはまだナショナル黄金カイロはありません。
この時代はギリギリで楠灰製造のゴールド懐炉があったかなかったかくらいですが、模造品に近いものはあちこちから出ていました。海外に目を移すと、John-Eブランドのものはこの時代に既に登場しています。なおJohn-EについてはJonne-eになったりJohn-eになったりブランド名があまり固定してません。(追記)Jon-Eが本格的にカイロを売り出すのは1953年頃らしく、この時代はまだないかもしれません。
サイト作者的にはいくら何でも箱にも説明書にも製造元の住所も書いてないような怪しげな製品を南極観測隊がそれも第1次隊が持っていったとは考えたくないのですが、西堀と南極新聞だけだと確証を得られなかったので、中野の手記を読むまでこのネタは保留にしていた次第です。

この方が、ハクキンカイロのホームページにある1962年に南極観測隊うんぬんとかいう話は南極観測隊のことではなくて中曽根が南極に行ったときの話なんじゃないか? という話には同意します。というか、当サイト作者のほうが先に言ってて、この方が当サイト作者の意見に同意しているといったほうが正しそうです。
これ、中曽根の手記の名前も書かなきゃだめですかね。でも面倒なので今日は書かないでおきます。あと、当サイトでビミョーにぼかした書き方とかしているのは、キュレーションサイトみたいなところにネタだけおいしくいただかれるのはばかばかしいからってのもあります。

それとこの方、当サイトに文献名書いてないとか言ってるわりにオジイチャンとか書いててはて? この方西堀越冬隊長のお孫さんなのかなとか一瞬思ってしまいましたが長髪先生とかいうところでああ検索避けなんだと理解しました。

鳥居の手記とか出てきたら何か分かるかもしれませんが大量の物資の管理をしてた人だからカイロの銘柄までは記録とかしてない気もします。


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