今日は真夏のハクキンカイロの話です。ある資料館の所蔵品で、以前、写真集に収録されているこのハクキンカイロの写真を見て、ぜひこの目で見てみたいと思ったけれど、それから数十年、未だに目にすることができていません。もちろんその資料館はマイコール資料館ではありません。ハクキンカイロを所蔵している資料館とか歴史館とかはわりとあちこちにあって、昭和の暮らし展みたいなところで昔はこんなものを使っていました(今でも使ってるって)的な紹介をされることが多いですが、これは昭和の歴史を刻むハクキンカイロではあるけれど、それ以上に人類の歴史を刻むハクキンカイロです。最後の持ち主がこのカイロを手にしたのは、1945年9月。場所は広島県です。現在所蔵しているのは広島平和記念資料館、通称、原爆資料館です。
このカイロ、所蔵に至るまでの説明がかなり二転三転しています。去年見た時のキャプションと今のキャプションですら全く内容が違うのですが、とりあえず今現在のキャプションで説明をします。
このカイロの元々の持ち主は、本名もはっきり分かっていますが一般人なので割愛します。35歳の男の人で、広島市で働いていました。徴兵されたそうですが、盲腸の持病があり、入隊できずに働き続けていたそうです。そして1945年8月6日、職場で被爆死します。ほぼ即死だったと考えられています。
遺体は損傷が激しく、誰だか分からなかったそうですが、カイロを所持していたことから、真夏にカイロを持っているのは、盲腸の手術跡が悪化して、いつも腹を温めていた故人に違いない、と判断された。つまり、遺体の識別の決め手とされた、重要なハクキンカイロであるのです。そして、被爆当時、被爆したその日そのとき、点火されていて、使用中であったと高いレベルで推測できる、たぶん世界で唯一の、使用中に被爆したハクキンカイロでもあるのです。
昨年資料館のサイトを見たときは、ハクキンカイロで遺体の識別をしたのは9月になってから疎開先から戻ってきた夫人であったと読める書き方だったのですが、現在のキャプションではそのへんの記述が全部消えています。その遺体が故人のものだと判断したのは、当時の同僚で8月時点だったのか、夫人で9月だったのか、今のキャプションだと分かりません。
その後このカイロは夫人が所有していましたが、1980年8月6日に夫人から資料館に寄贈され、収蔵品となりました。元の持ち主である夫の年齢から推測すると、生きていらっしゃれば、夫人は今は109歳くらいだろうと思います。
あらためてそのハクキンカイロを(広島平和記念資料館の収蔵品名は「カイロ」)見てみます。激しく劣化していますが、1940年頃製造の貼り合わせのステンレスモデルです。ほぼ同一のモデルは当サイトでも紹介しています。いくら80年前の物で、品質の悪い戦時モデルのステンレスモデルとはいえ、ここまでサビが出て劣化しているのは、被爆した際に受けた劣化が原因ではないかとも推測できます。少なくとも当サイト作者所有のステンレスモデルはここまで劣化していません。なお、通常モデル(真鍮ニッケルめっき)は、このような錆び方をしません。錆は出ますが、青っぽい緑青が出ます。また、当然ながらステンレスモデルよりははるかに錆びにくいです。
非常に残念なことに、刻印類が見える向きで撮られた写真がありません。あるいは刻印は被爆時に溶けて消えてしまったとも考えられます。可能であれば、裏側を見て刻印の有無を、そしてフタを開けて火口とその状態を、そして綿とその状態をも見てみたいところですが、多分サイト作者が生きているうちにはその願いは叶わないでしょう。
このモデルは本来、両面に刻印があるはずです。写真のものに刻印がないのは、やはり被爆時に受けた熱で見えにくくなってしまったのか、戦中の製造なので刻印とかの打ち方もいい加減で、元々刻印がされなかった可能性もあります。
袋もありませんが、元々ついていた袋も戦時モデルの元々ボロい袋なので、破けてなくなってしまって被爆当時は使用していなかったというふうに考えることもできるし、被爆時の熱で燃えてしまったとも考えられるし、内臓の持病のあった人なので、腹巻等にカイロを入れていて、元々袋は使っていなかった、と考えることもできます。
さらに重要なのは、元の持ち主が1945年8月の時点で比較的潤沢にカイロ用ベンジン(当時の呼称はキハツ油)を入手できる環境にいたと考えられることです。ガソリンの一滴は血の一滴とか言われていた時代ですが、家庭用でしみ抜き等に使われるベンジン(キハツ油)は統制されなかったっぽいので入手できたのでしょうか。それでも原材料が不足したら入手困難だと思いますが。
ずっと腹を温めていなければならなかった、とすると、40日で1リットルのベンジン(キハツ油)を使ったはずです。年に直すと9リットル。今でもちょっと大きな買い物になると思うのですが。通院しながら仕事を続けていたとのことなので、病院で手に入ったのかもしれません。
ほかにもいろいろ気になることがあります。このモデル、たぶん1944年には製造してないように思います。となると、換火口とかどうしていたのか。もちろん、この年の3月まではハクキン懐爐本舗矢満登商會が操業していたので、手に入れることは可能だったと思いますが、軍需省がプラチナを供出しようとか広告を出していた時代、火口も軍用が優先されていたはずで、民生用に回せるほど換火口とか作っていたのだろうかとか、いろいろ謎は残ります。この時代の火口は今ほど耐久性はないので、毎日24時間ぶっ通しで使ったら、最低でも年に3,4個くらいは必要になると考えられます。
前述したとおり、このカイロの写真は写真集とかにも収録されていたりして、かなり有名なハクキンカイロ(当時の呼称はハクキン懐爐)です。ただ、サイト作者が数十年前に写真集で見たときのキャプションは、他のカミソリやはさみなどの遺品と一緒に机の引き出しから出てきたような記述でした。
もう一つちょっと気になるのは、キャプションにある大きさ65×90というところ。サイト作者が計ったらこのモデルの大きさは67×97mmくらいあるのですが、被爆で縦だけ1割近く小さくなることはないと思うのですが。ひょっとするとサイト作者所有のものとは型が違う別ロット品かもしれません。