南極観測隊はハクキンカイロを使ったのか


ハクキンカイロ公式サイトには、1962年の欄に、「南極観測隊がハクキンカイロを携行し、すっかり国民的商品となる。」とあります。南極で使われた、それも国策で国が派遣した南極観測隊が使用したというならば、当時は絶好の宣伝材料になったはずです。同じような表記は、20年くらい前からずっとありました。でも。素朴な疑問があるのです。それは。

1962年。日本は、南極観測隊を南極に送っています。でもそれは、昭和基地を閉鎖するための隊で、要するに第4次越冬隊を日本に帰らせるための隊なのです。
当時の記録や、南極とカイロについての記述もいろいろと探しました。でも、ハクキンカイロを持って行った、という、はっきりとした記述は見つからないのです。

南極観測隊員ではありませんが、中曽根康弘(のちの日本国首相)の当時の手記に、南極に行ったときにハクキン懐炉を持って行った旨の記述があります。なので、全く使われていなかったわけではないと思うのですが、南極観測隊がハクキンカイロを使ったという記述が何故か出てこない。

ただ、おそらく南極には持って行ったのだろうと思います。1次観測隊を乗せた南極観測船「宗谷」の船内売店で、「白金懐炉」が販売されていたという記録があります。ただ、この記録、いろいろ変なのです。白金懐炉と火口が売られていたのですが、そもそも重さが全然合わない。それと、当時売られていた白金触媒式懐炉は、ハクキンカイロ以外にもありました。これだけの記述だと、その「白金懐炉」とやらが、ハクキンカイロなのか、他社製なのかもまた、微妙によくわからないのです。

1次越冬隊長西堀栄三郎の手記には、カイロを使ったという記述が1カ所だけ出てきます。でもこれだけだとやっぱり、当時主流だった灰式懐炉だったのか、白金触媒式だったのか、そもそもハクキンカイロだったのか、分かりません。

図書館とかで散々記録をあさってようやく、1次越冬隊員中野征紀の手記、「南極越冬日記」(1958年)に、西堀が使ったカイロが、「ハクキン懐炉」という記述を発見。おそらく間違いなく、西堀が使用したのはハクキンカイロ株式会社(当時の社名は株式会社矢満登商會)製品であると十分に推定できる記述がみつかりました。

可能であれば、西堀が南極で使用した「ハクキン懐炉」の実物を見てみたいものですが、たぶんこの望みもかなわないでしょう。

極地研究所のホームページとかには、南極の写真がどっさりあるのですが、どういうわけかカイロを写した写真とかは見当たりません。もちろん全部見てるわけじゃないのですが。雪上車とか無線機とかは写真に撮られるのに、確実にそこにあったはずのカイロは、どういうわけか誰も写真に撮らなかったようです。

なお、現代の南極観測隊は防寒着のいいやつを着ていくので、カイロはあまり使ってないみたいです。

それにしても不思議なのは、ハクキンカイロ公式にある1962年の記述。わざわざ書いてあるからには当時、南極観測隊がハクキンカイロを持って行きました的な報道とか何かがあったのでしょうが、その1962年の記述がどうしても見つかりません。ラジオやテレビのニュースか何かで流れたのでしょうか。
前述の中曽根が南極に行ったのは1962年11月なので、これを元にしたのだとするとだいたいつじつまはだいたい合います。(中曽根は南極観測隊員ではありませんが)

なお、西堀がハクキン懐炉を使用したのは、腹痛になったので医師である中野の診断で腹を温めるためで、野外活動で使ったという記述はありません。けれど、1次越冬隊がハクキン懐炉を持って行ったというのは特筆すべきでしょう。当時の輸送力で運べる荷物の量は極めて限られていました。ハクキン懐炉を載せなければ、その分燃料なり食料なりを余分に載せられたはずなのに、わざわざ1次越冬用の荷物の中にハクキン懐炉が入っていた、そして使われたというのは、見過ごしがちだけれど重要だと思います。

まとめると、
1957年3月19日、昭和基地内で、腹痛を訴えた第1次越冬隊長西堀栄三郎に対し、医師の中野征紀が薬を処方するのと同時にハクキン懐炉で腹を温めるように指示し、西堀はハクキン懐炉を使用した。

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“南極観測隊はハクキンカイロを使ったのか” への1件のコメント

  1. 私も腹痛がちでよくハクキンカイロでお腹温めているので親近感の湧く話ですねぇ。

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